稲核 深山織「川上裕子さん」
~山岳地の風景を思い出し、日常に馴染んでいく織りものを~
松本から国道158号線を高山方面に進み、山深くなってくる頃合いに着く道の駅「風穴の里」は、行楽シーズンを中心に旅の休憩スポットとして賑わいます。その風穴の里に隣接する「みどの工房」では、財布やバッグ、コースターなど、手織りの作品が日々生み出され、店頭に並べられています。素朴な風合いと、優しい色合いが印象的なその織りものは「深山織(みやまおり)」と呼ばれます。工房で「トントントン」と軽快なリズムを刻みながら、日々機織り機に向き合うのが、地元稲核出身で深山織作家の川上裕子さんです。今回は、裕子さんに深山織の魅力や、この地で織りものをする上で大切にしていることについて、話をお聞きしました。
祖父が始めた深山織を継ぐ
「ここにある機織り機は、祖父が織りものの工房を始める際に各所から譲り受けたものです。古いものは、100年くらい経っているんじゃないですかね。道具も工房を始める時に使い始めたものがほとんどですが、今でもずっと使っています。」
△工房にずらりと並ぶ機織り機
歴史を感じさせる古い機織り機を前に、愛着のまなざしを向けながらそう語ってくれたのが、みどの工房の川上裕子さん。安曇の民芸品の一つである深山織は、草木染などで染められた木綿の糸をたて糸に、古布を裂いたものなどをよこ糸として織り込む織りもののことで、安曇周辺地域に訪れる観光客に昔から人気のお土産品です。
裕子さん「深山織は、昭和45年頃に祖父の川上忠蔵(ちゅうぞう)が始めました。この辺りにダムが3つできて集落の畑や家がダムの下になり、稲核や安曇を離れてしまう方が多くなりました。畑も産業もなくなってしまう一方で、ダムのおかげで道が良くなり、上高地に行くお客様が増えたんです。それで地元の人に仕事をということで、安曇民芸品協会を立ち上げて観光客向けのお土産として工芸品をつくり始めました。祖父が50歳の時です。」
△工房を始めた頃から使っている道具のひとつ、よこ糸を織りこんでいく「シャトル」
忠蔵さんは、「安曇の民芸品を作ろう!機織りをやろう!」と、松本平の繊維試験場の先生に教わりながら、地域で機織りのできるお母さん方に手伝ってもらい、深山織を開発。雇用の創出をしないとこの地域から人が離れてしまうという思いが強かった忠蔵さんは、その危機感から事業を始めました。それに加えて忠蔵さんには「何か新しいことをやりたい!」というパイオニア精神のようなものがあったのではと裕子さんは感じています。
深山織と共に育まれた地域内外の人とのつながり
深山織はその後、祖父母、ご両親、そして裕子さんへと引き継がれていくことになるのですが、裕子さんの傍に幼いころからあった深山織の思い出とは……。
△機織り機に向き合う裕子さん
裕子さん「小学校が終わると、帰るところは機織りの工房でした。そうすると近所のおばちゃん達が機織りをしていて、よくちょっかいを出していました(笑)。母の膝の上で機織りをすることも。小学校の頃は、機織りだけでなく保育園の脇にあるお店で安曇地区や松本平の工芸品などを売っていたので、お店の手伝いをすることもありましたね。」
深山織との思い出を辿ると、裕子さんに刻まれている記憶には、家族や近所の方との密であたたかな時間、そして地域の外の世界ともつながる時間がありました。
△近所に生えているシナノキを伐り、腐らせて皮を裂いて繋いだもの。昔、忠蔵さんがつくった素材が残っていて今も大切に使っている。
△シナノキの皮をよこ糸に使ったコースター
地元へ帰って来て改めて知る地域のよさと深山織の面白さ
裕子さんは地元の中学を卒業した後、高校は稲核からバスに揺られ、電車を乗り継いで松本市街地の高校へ通いました。子ども時代から絵が好きで、夢中でずっと描いていたという裕子さん。高校卒業後は、京都にある美術系の大学へ進学し、染色を学びます。
裕子さん「当時は、織りもののためにとか、将来のことを深く考えて進路選択をしたわけではなかったんです。でも大学に入学してすぐのGWに地元に帰ってきたら、ここら辺の芽吹きのきれいさに改めて感動。いろいろあるけど、やっぱりいい場所だなーって思ったことを覚えています。」
少し地元を離れてから、子どものころから毎日見ていた風景を改めて眺めてみた時に、他にはない良さを再認識したという裕子さん。卒業後は地元へ戻り、深山織を仕事にすることを決めました。
裕子さん「深山織は、私がやらないとなくなっちゃう。じゃあ、とりあえずやってみようかなというのもあって。それで、本格的にやってみたら面白い世界で、続けているうちに気づけば20年が経ちます。」
さらっと「続けているうちに20年が経った」という裕子さんですが、長い年月「続ける」ことの難しさは誰しもが経験するところ。裕子さんが深山織を続けるモチベーションはどんなところにあるのでしょうか。
たて糸とよこ糸の織りなす模様の味わい
裕子さん「機織りって、たて糸とよこ糸の織りなすもの。色の組み合わせを考えて、機織り機にたて糸を一本ずつ通して準備をし、そこで初めてよこ糸を入れて叩き込んで織っていきます。織るまでの工程はたくさんありますが、織ってみないと(どんな模様が現れるか)分からないんです。毎回どんな感じになるかなというわくわく感がある。そして出来上がってみて気づくことがある。終わりがない世界です。」
そんな終わりのない世界を日々追求する裕子さんが織りものに向き合うなかで楽しいと思える瞬間は、「糸の色の組み合わせを考える時」なのだそう。裕子さんの作品は、目に優しく馴染むカラフルさがあります。そのたて糸に使う木綿の糸は、ご自身が草木染で染めたものもあれば、その昔、裕子さんの母が染めたものも。また忠蔵さんが織りものを始める際に買い集めたものもあり、とりわけ「古い糸」を今も大切につかっています。
裕子さん「昔の人の紡いだ糸は、機械で均一化された糸よりも不思議といい感じに織れる。糸としては微妙な違いでも、織りものになると味わいがかなり違う。それがまた面白い。」
手間をかけ、年月を経たものだからこそ宿るものがあるとするならば、古い糸の持ち味を慈しみながら織り機に向き合う裕子さんは、まるで歴史を刻んだピアノから味わい深い音色や響きを生み出すピアニストかのよう。
裕子さん「織りものは気持ちに左右されるので、集中している時間をいかに増やすかというところで、『深呼吸』を意識しています。昔、生け花の先生から教わり、小さな一輪の花を剣山に刺す時に細く息を吐いてからだと上手く刺さるのを体験しました。そのことを思い出して、気持ちが乱れた時には細い息をふぅーっと吐いて集中させてから織機に向かいます。」
山岳地の景色を思い出すお土産品になれたら
山あいの豊かな自然に囲まれて、古い糸や道具を愛でながら、日々心の状態を整えつつ織機に向き合う裕子さん。深山織の作品を作る上で大切にしている事とは……。
裕子さん「バックに入っていて、例えばポーチなどを手に持った時に『気持ちがいいな』とか『ホッとするな』と思ってもらえる、ストレスのないものをつくれたら。日々使っていくうちに、その方の日常に馴染んでいって、ぼろぼろになるまで使ってもらえたら嬉しいです。」
現に工房には、長年使い続けた深山織の品物を手に、同じ形の新しい品物を求めて再び買いに来る方がいるそうで、そんなお客様と会うと、裕子さんはこの上ない喜びを感じるのだとか。
裕子さん「うちの商品は、上高地や松本にも卸しています。この深山織というお土産品を通して、旅先の風景を思い出してくれたらいいなと。旅の楽しい思い出とともに、またこの地域に行きたいなって思ってもらえるきっかけになれたら嬉しいし、ありがたいなと思います。」
改めて工房を見渡すと、どれも不思議と自然豊かなこの土地の風景を思い起こさせてくれる気がしました。また、作品に得も言われぬあたたかみを感じるのは、ご家族から引き継がれてきた地域を大切に思う心や、裕子さんが愛する山あいの景色と古い道具を慈しむ思い、そこにこの地で育まれたであろう裕子さんの色彩感覚や使い手への心配りもかけ合わされているからでしょうか。ワクワクしながら「これを試してみたい」と思って実際に行動にしたときの驚きや発見を「だったら次はこうしよう」と次につなげ、それを日々続けていく。そのリズミカルな繰り返しからなる美しさを、この地で裕子さんと深山織が教えてくれているようです。
◆みどの工房
定休日:木曜日・金曜日
【冬季休業】 11/中旬~4/下旬
※織物の体験も可能
instagram https://www.instagram.com/nakaya_midonokobo
◆道の駅風穴の里
https://fu-ketsu.com/wp/
取材日:2024年7月10日
写真:セツ・マカリスター
聞き手・文:楓 紋子