取組インタビュー #12

20分

白骨「歴史・文化的価値のある地域資源を活かす温泉地へ」

~温泉地としての景色を創り直すために~

大正二年に長編小説『大菩薩峠』中に白骨の地を「五彩絢爛(けんらん)たる絶景」と称賛されて全国に知れ渡り、以来多くの湯治客や文人に愛されてきた温泉地-白骨。

そんな白骨は、中部山岳国立公園に位置し、国の特別天然記念物に指定された噴湯丘・球状石灰石の文化財的価値が再評価されている一方、観光客の減少、住民数の減少、高齢化が進むなど課題も多い。歴史ある温泉地としての足跡をたどりながら、白骨の今について、白骨温泉旅館組合理事長の齋藤志津人さんにお話を聞いてきました。

白骨と鎌倉街道・信玄とのつながり

白骨温泉観光案内所を経てなだらかな坂道を歩いて登っていくと、その先に山を背後に携えた、風格のある旅館が佇んでいます。その旅館が、齋藤志津人さんの営む湯元齋藤旅館。私たちが訪れると、趣のある館内にゆったりと招いてくださいました。

△白骨温泉旅館組合理事長の齋藤志津人さん

楓 湯元さんは、300年以上も前からある歴史ある温泉宿とお聞きしました。白骨開湯の歴史や、地域の成り立ちについて教えてください。

志津人さん 白骨の歴史は大野川村(※)の歴史そのものです。遡ると、白骨の温泉は、鎌倉時代には既に自然湧出していたと伝えられています。この白骨は、鎌倉往還……北陸の諸大名が、時の政治の中心地・鎌倉へと向かう鎌倉街道が通っていた場所なのです。彼らが一夜の宿りをこの湯で過ごしたのではと。またそれを裏付ける証拠も残っています。

(※)大野川村(現在の松本市安曇(大野川区))は白骨・乗鞍高原からなるエリア

昭和30年に、白骨を通る(現在で言うスーパー林道C線の)道路工事中に、石灰岩の間から刀で斬られた跡のある人骨が見つかったのだとか。調べたところ、鎌倉時代のものであることが分かったそうです。その人骨の存在は、鎌倉時代には既にここに人がいたことを示しているということ。

志津人さん また、白骨は武田信玄の隠し湯だったのではという説もあります。戦国時代、武田信玄の命で乗鞍岳の麓に大樋金山が開発されましたが、その際に傷病者の手当てをするため、白骨の湯が使われたのではとも伝えられています。

ちなみに、「白骨」の地名の由来は、地元に伝わる古文書によると元は「白船」「白舟」とあるそうです。これは栃の大木を六尺ほどに縛って、丸木船様に彫った「フネ」を称するものを湯舟代わりに用いていたところ、その内側に温泉の石灰分が白く結晶したところから、それを「シラフネ」と呼び、それが「シラホネ」に変化したと言われています。

△江戸時代(元禄)に建立されたという薬師堂。湯の成分である硫黄と医療の王様をかけ、「医王殿」とも呼ばれている。

大野川村の財政に大きな影響を与えた「湯守」

楓 白骨に残る歴史の痕跡、とても興味深いですね。ところで、一番はじめに、『白骨の歴史は大野川村の歴史そのもの』と言われましたが、それはどういうことなのでしょうか。

志津人さん 大野川村は、江戸時代には松本藩の御用杣で、木材を切り出して村の生活を営んでいました。しかし村の財政・村人の生活は苦しいものだったようです。一方で、松本など近隣のお百姓は農閑期に温泉に入るため白骨に足を運び、次第にその温泉客の数が増えていった。そこで、先祖は夏場に大野川村から白骨へと湯守に出掛け、冬場にはまた本村の大野川村へと戻るという生活をするようになりました。白骨の温泉経営は、村の財政に大きく寄与していたのです。

白骨の湯の営業を取り仕切り始めたのは、古くから大野川村の庄屋をしていた志津人さんの祖先の湯元・齋藤家で、明治の初めまでは3軒の宿を所有していたそうです。

△白骨の歴史について語る志津人さん

明治時代にあった、大野川の独立開業サポート

志津人さん 体制が変わり、明治には3軒のうち2軒が大野川村の所有に代わりました。その2軒は、大野川村から家守を置き、家屋を貸して営業したのです。初めは5年契約、それが次第に長期化していき、最終的には30年の契約になりました。契約期間中に、家守は資金を貯め実務経験を積み、新規事業を始める準備ができる仕組みがあったのです。

楓 今でいうビジネススタートアップ期の開業支援のようですね。村を挙げて資金面・実務面でサポートする体制がその頃にあったとは、驚きです。

志津人さん それもあって、当時は村の中に湯屋の経営をしたい人が相当いたようです。実際、こうした仕組みがあったことで、何軒かの宿が契約終了後に独立していきました。泡の湯・湯川荘・笹屋などがその例です。ただ、この制度は居住権の問題などから上手くいかなくなり、しばらくの後、撤廃されたのですがね。

今、白骨温泉に必要なこと

白骨温泉一帯は、梓川のせせらぎ以外に音もなく、夜は満天の星空が広がる秘湯の地。昭和~平成の温泉・秘湯ブームに伴い、メディアに頻繁に露出するようになるにつれ、白骨に訪れる客足がぐんぐん伸びていきました。「白骨バブル期」の到来です。しかしその後、白濁の温泉をめぐる問題を一つの発端に、「個々の宿がバラバラの方向を向くようになったように思う」と語る志津人さんに、これから白骨にとって必要なこと・大切にしたいことをお聞きしました。

志津人さん 今、白骨全体は少し寂しい雰囲気が漂っています。高齢化が進み、若い人達がどんどん減って、後継者不足も深刻です。私の子ども時代の白骨は、温泉宿があるだけではなく、そば畑もあり、そば屋や土産物屋など、温泉を中心に活気のあるコミュニティが作られていた。また、お客様と地元との触れ合いが濃く、板屋根に石がのった家屋の雰囲気にも趣があって、地域一体として湯治場の雰囲気を醸し出していたのです。昔に戻ろうというわけではないが、当時のように地域が心ひとつになること・まとまりのある雰囲気をもつことは、大切なことじゃないかと思います。

△温泉街にあるおみやげ店「白骨斎藤売店」。かつては賑わいを見せていた。

楓 心ひとつになること、そしてまとまりのある雰囲気……。今、そこへ向けて、何か計画があるのでしょうか。

志津人さん 白骨温泉まちづくり委員会が中心となり、『景観づくり』と『まちづくり』の両面から、白骨地域を保全・活性化する事業計画を令和2年にまとめ、市の事業として進めることができないか、提言している最中です。

楓 その事業計画の中で、具体的にどんな取り組みを提言されているのでしょう?

志津人さん 景観づくりの面では遊歩道や駐車場の整備、建築物等の景観の統一など、地域の自然と建築物との調和のとれた景観を形作れるような取り組みです。また、まちづくりの面では、国の特別天然記念物である噴湯丘・球状石灰石からなる景勝地として、この価値ある文化財を継承し、地域資源として活用していく取組みや、温泉地滞在の仕方を広げる取組みなど。他にも様々な計画を提言しているので、詳しくは事業計画書を見てみてください。

◇白骨温泉まちづくり委員会事業推進計画はこちら

△湯元さんを一歩出ると見える景色。周辺には、天然記念物など文化的資源や自然のみどころがあるが、遊歩道の整備やPRなどに課題があるという。

白骨温泉まちづくり委員会が作成した事業推進計画は、令和2年に作成して松本市に提案したものの、すぐには動き出せないとのことで、実行に向けて足踏みが続いているそうです。それでも、なんとか進められたらと引き続き行政との連携を図りたいと語る志津人さん。

志津人さん この計画は、白骨地域単体では進められません。周辺エリア全体のリーダーシップが必要ですし、白骨の価値や進むべき方向性を皆で共有しながら、行政や周辺エリアと連携を取りつつ進めていきたい。来てくださるお客様にも「白骨って、いい雰囲気だね」と言われるような白骨の景色に創り直していきたいですね。

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古く、鎌倉時代には既に自然湧出されていたとされる温泉地としての歴史。そして湯屋の貸付制度という、地域で新しくビジネスを始めたい人を村ぐるみでサポートしつつ、ビジネスが上手く回ることで村の経済が潤う仕組みが明治の時代からこの地域にあったこと。これらのことは、古くから繋いできた温泉を中心とする自然資源を最大限活用しながら、地域全体が持ちつ持たれつの、(とは言え個々の存在は自立を前提にしつつの)共同体として生きてきたとも言えます。人と自然との共存を目指すこれからの地域づくりの大きなヒントがここにあるように思います。

また、「『いい雰囲気だね』と言われる白骨の景色に創り直していきたい」と静かに語る志津人さんの言葉には、先人から引き継いできた、この地ならではの開拓者スピリットが込められているように感じました。『いい雰囲気』は、主観によって様々でも、個で作るのでなく個と個のつながりや関係性の中で醸し出されていくもの。白骨に現存する地域資源を見直しつつ、時代のニーズに即した新たな価値を生み出す事業計画には、住民・事業者・観光客・行政、相互の新しい関係性構築への理想が詰まっているように思います。白骨の明るい未来のため、実行へ向けたアクションが期待されます。

◇白骨温泉公式サイト
http://www.shirahone.org/

写真:セツ・マカリスター

聞き手・文:楓 紋子

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